「こんなの俺のじゃない」
新卒1年目の2学期末、担任していた3年生の男児が、通知表を机上に投げ捨てた。跳び箱の技能は申し分なかった。が、ゲームでは勝敗にこだわり、負けを素直に認められない、チームの和を乱すなどが多かった。悩んだ末、体育の評定を4とした。その結果が、これである。納得できない彼は、通知表を置いたまま教室を飛び出した。
「怖いから・・・」
指導主事と同期採用の教諭3人が見守る中、採用2年目研修で6年跳び箱運動の授業を公開した。開脚跳びのできない女児が複数いた。助走し、踏み切り板に上がり、両手を跳び箱の上に着く・・・。この繰り返しが続く。その時の一人が発した言葉だ。横に置いた4段の跳び箱で、かかえこみ跳びができる男児も数えるほどしかいなかった。後れること1か月、同期の一人も体育で授業を公開した。しかも同じく6年、跳び箱運動。単学級で20人弱のクラスだった。ほとんどの子が、かかえこみ跳びができた。しかも、縦に置いた6段の跳び箱でできる子が男女問わず多くいた。体育館の壁面に掲示してある学習資料も素晴らしい。子どもの技能、教材準備等、自分との違いに打ちのめされた思いだった。
最初の例に挙げた子は、3年生の1学期までは、通知表を見せながら、「国語や算数ももっと頑張ってほしいなぁ」などとお母さんに言われ、「いいじゃん、体育は5だぞ」と胸を張っていたに違いない。気はいいけどやんちゃで、友達とトラブルになることも少なくなかった。私は、彼の短所にばかり目を向け注意し、長所を褒めたり、認めたりすることがあまりできなかった。指導力があれば、体育指導の過程でもっと彼に寄り添い励ますことができれば、態度面を改めることができたはずである。しかし、当時の私は『北風と太陽』の北風にしかなれなかった。そして唯一彼にとっての自慢、体育の5を奪ってしまった。その至らなさに私が気付いたのは、年度末の卒業式練習でのことである。彼への指導のまずさを先輩に指摘され、翌年、その先輩が主任として様々なことを教えてくれることになる。その顛末については、とてもここでは触れられない。
2例目の公開授業に関しては、穴があったら入りたい、正にその境地だった。教材研究のレベルや指導スキル、いや、子どもに対する情熱など何もかもが同期の教諭には遠く及ばなかった。
この2つの出来事は自分の未熟さを嫌というほど味わわせてくれた。私にとっては有意な失敗と言えないこともない。しかし、当の男児、女児たちにとってはどうなのだろうか。昔のことと忘れてしまったり、笑って済ませたりできたことなのだろうか。私の指導や評価が、何気ない言葉や態度が、その後の人生に好ましくない影響を与えていなければよいのだが・・・。
教職を終えようとする今、清々しい気持ちばかりではいられない。自戒しても遅いのだが、苦い思い出が蘇り、首を垂れる自分もいる。そして、教職の重責を改めて噛み締めている。反面教師にしていただければ幸いである。
副支部長 阿部潤 (沼垂小学校 60年度)