“私は,文学的な文章を読む学習において,子どもたちの感動を大切にしたいと考えて授業づくりをしてきた。しかし,子どもは,学んだことを次の単元で生かして学習する姿には至らなかった。子どもにとって,どんな力を単元の中でつけることができたのか,自覚しづらい授業となっていたためである。
文学的な文章を読む学習の価値について,二瓶弘行(2011)は,「文学作品の学びの最終段階は,「作品の心」の把握にある。誤解を恐れずに言えば,四十人の子どもがいれば,四十の多様な読みがあっていい。けれども,その多様な主観的な読みを支える「客観的な読み」を軽視したとき,文学作品の学びは恐らく崩壊する。」と,作品を離れたとき心に残るものを自分の言葉で表現する力の育成と,それを支える「客観的な読み」の重要性を述べている。
すなわち,自分の読みをつくり上げ表現する「主観的な読み」の力を育てることが,文学的な文章を読む学習の最も大切なねらいであると言える。そして,「主観的な読み」は自力読みの観点に沿って子どもたちが文章を読む過程で身に付けた,「客観的な読み」に裏打ちされることが重要なのである。ここでいう「客観的な読み」とは,子どもにとって国語教室における共通の学習用語である,読みの観点による作品内容の共通理解を指す。読みの観点が子どもにとっての共通の手だてとして働く授業を通して,作品について解釈したことを自分の言葉で表現できる子どもを育てたい。
以上,文学的な文章の特性と授業づくりにおける課題から,私は,目指す子ども像「自分の読みを作り上げようと文学的な文章を客観的に読む中で,物語の展開や登場人物の相互関係について捉え直し,自分の読みを表現する子ども」を設定し,研究を進めることにした。”,令和元年度”